| 大和時代 |
百済(くだら)より奉納された釈迦尊像と経典が、山城の地にある草室へ納められたとされます。これが、日本列島最古の寺院の一つとされる「高麗寺(こまでら)」の発祥と推定されます。
欽明天皇崩御の後、即位した敏達天皇は高句麗(こうくり)と国交を開かれ、山城の地に伽藍境内(がらんけいだい)を造立して「高麗寺」と名付けられたとされます。高句麗より渡来した氏族・狛氏(こまし)の影響により、この地域は現在も「上狛(かみこま)」と称されていると考えられています。 |
| 平安時代 |
平安時代の天長4年(827年)頃に最盛期を迎えた高麗寺の境内は、大金堂、南大門、大講堂、八宗教院四季講堂、法華堂、常行堂、皇太子殿、祖師堂、勧学院論義堂、開山堂、五重塔などが建ち並び壮大なものでありましたが、五度の火災焼失に遭い、室町時代の永享9年(1437年)に座主・任悟法親王が再建された時には、金堂、開山堂、大門、塔頭(たっちゅう)十ヶ寺のみとなりました。
塔頭十ヶ寺とは、最勝院、龍雲院、宝満院、宝幢院、西住院、西藏坊、不空坊、南勝坊、「南之坊」(後の善正寺)をいいました。 |
安土桃山
江戸時代 |
慶長7年(1602年)、野火の為に伽藍境内は焼失し、「高麗寺南之坊」は「善正寺」と寺名を改めました。翌年の慶長8年(1603年)には徳川家康が征夷大将軍となり江戸幕府が開かれますが、その江戸時代頃は、庶民が読み書き・算盤・仏教を学ぶ「寺小屋」でありました。 |