【ご質問 一】 数珠の意味は? 数珠はもともと古代インドのバラモン(司祭者)が使用した道具が起源と伝えられています。現在、材質としては水晶、ヒスイ、サンゴなどの宝石のものや、梅、杉、檜、黒檀、沈香、白檀、菩提樹、ガラスなどさまざまなものがあります。それらの珠に穴を開け、糸で繋ぎます。珠が108個のものが基本ですが、54個、27個のものもあります。ブレスレットのように手首につけておく腕輪念珠(うでわねんじゅ)というものもあり、お守り兼ファッションとして、年齢の若い方たちの間でも気軽に持たれています。 数珠は本来、仏様の真言、念仏を唱えるときに数を数えるために用いるもので、一回唱えるごとに珠をひとつ動かして使います。仏様に念ずるということから念珠(ねんじゅ)とも呼ばれます。数珠を両手でジャラジャラと摺ることがありますが、心にある108の煩悩を取り除くため、自身の願いを仏様に念ずるために行ないます。数珠は仏様を礼拝する際に用いる大切なものですから、粗末に扱わないようにしましょう。 |
【ご質問 二】 袈裟(けさ)の意味は? お釈迦様をはじめ出家した僧侶たちは、糞掃衣(ふんぞうえ・人が捨てた布を繋ぎ合わせた衣)を身に纏っていました。捨てられた布は欲望や煩悩が離れているものと考えられ、修行者はその布で作られた衣を着用するのが適していると考えられたからです。僧侶は衣を着けることによって威儀を正して生活し、仏様に仕えながら自身の修行を行ないます。インドでは僧侶が身に纏うものを衣といいますが、日本では衣と袈裟が分けられていて、衣の上に懸けるものを袈裟といいます。しかし本来袈裟は、梵語「カシャーヤ」(壊色を意味する)」の音写漢字で、色の事を言います。いずれにせよ、袈裟、衣は世間から出家した証であり、僧侶の「戒め」でもあるのです。 お寺の檀信徒に所属している方の中には、首に掛ける略式の袈裟をお持ちの方もいらっしゃることでしょう。袈裟は数珠と同様に、仏様を礼拝する際に用いる大切なものです。地べたに置かない、トイレに行く際には外すなど、粗末にならないように大切に扱いましょう。 |
【ご質問 三】 お坊さんのことを何と呼ぶのが良いですか? 一寺院を代表する僧侶に対して間違いがない呼び方は、「住職(じゅうしょく)」だと思います。「和尚(おしょう・若い僧侶の生活指導をする師僧)」、「院主(いんじゅ・寺院の主)」などの呼び方をよく耳にしますが、宗派や位や地域性など、さまざまな理由によって呼び方が異なりますので、お世話になっているお寺のお坊さんのきちんとした呼び方を知りたいならば、直接お尋ねいただくと良いと思います。呼び方を尋ねることは、決して失礼なことではありません。真言宗では高僧へ、「和上(わじょう)」や「阿闍梨(あじゃり・瞑想などの専門的な分野を教える高僧)」、「僧正(そうじょう)」などと言います。「坊主(ぼうず)」という呼び方はイメージとしてあまり良い呼び方ではないように思われますが、お寺の中にある僧侶の住む住居のことを坊(ぼう)といい、その代表を「坊主」といいましたので、本来は悪い意味ではありません。 真言宗の開祖・空海(くうかい)様は弘法大師(こうぼうだいし)と呼ばれ、天台宗の最澄(さいちょう)様は伝教大師(でんきょうだいし)と呼ばれます。この「大師」とは諡号(しごう・朝廷からの贈り名のこと)で、たいへん徳の高い、国を導くようなありがたい僧侶へ贈られる敬称のことです。 |
【ご質問 四】 お坊さんが剃髪している意味は? 僧侶が剃髪している理由は、諸説あるといわれます。古代インドに起こり現代も存在するジャイナ教という宗教では、徹底して財産を持たないという「無所有」の教えがあり、髪の毛も財産の一部と見なされたことから剃髪が行なわれたとされます。その影響を受けた仏教僧も、物質に対する執着を離れるために、剃髪するようになったという説があります。また、一般世間の価値観を捨てた証で、仏道修行の意志をはっきりさせるためともいわれますし、修行を遂行するために人目を避けて身をめだたないようにするため、ともいわれます。いずれにせよ、僧侶の剃髪の姿には、この世の執着を捨て去って修行に没頭する、という思いが込められています。 |
【ご質問 六】 写経(しゃきょう)にはどんな意味があるのですか? 「般若心経」や「観音経」などのお経を写すことを「写経」といいます。現在、写経はお寺ではもちろんのこと、カルチャーセンターなどでも行なわれています。写経用紙を購入すれば自宅でも気軽に行なうことができることから、幅広い年齢層で親しまれるようになりました。特に「般若心経」は、声に出して読んでも、写経しても、意味を考えてもご利益があるとされることから、人々の間で盛んに写経が行なわれてきました。写経することで、心を落ち着かせ、精神を集中する訓練にもなりますから、まさに修行といえるでしょう。経典の文字を書いているうちに、文字の意味に興味を持ち、経典の意味を考えるようになれば、仏様の教えとのご縁も深まります。経典のほとんどには、生き方、ものの見方や考え方、信仰の方法が書いてありますから、意味がわかると心の支え、人生の指針となることでしょう。お経とは、仏様の教えをまとめて記したものです。ですから、写経することによって仏様の教えに触れることができ、今の自分の生き方を見直すことができるのです。 |
【ご質問 七】 厄年(やくどし)の意味は? 災い、不幸に遭うことが多いとされるのが厄年です。厄年は男女それぞれ違います。もともとは陰陽道(おんみょうどう)の思想によるものと伝えられますが、厄年の年齢を男女共に見てみますと、体調面をはじめ、社会的なことで人生の転機、節目となることが多く見られて、人の内面外面の環境が変化しやすくなる時期ということがわかります。そういうことから、厄年を迎える際には、厄除開運の祈願を神社、寺院で行なう習慣が生まれました。当ホームページの「御祈祷」のページに、「厄年早見表」を設けておりますので、どうぞ一度ご覧ください。 |
【ご質問 九】 清めの塩とは何か? お葬式に参列しお焼香を済ませた後、「清めの塩」という小さな袋に入った塩をもらうことがあります。これは、死というものが穢れたものであるから、お葬式に参列した後はこの「清めの塩」を身に降りかけ、体を清めてから自宅へ帰りましょうというものであります。しかし近年、この「清めの塩」が少なくなってきています。その理由は、つい先日まで私たちと同じように過ごしていた人たちを、亡くなったからといって急に穢れとするのはいかがなものか、ということだそうです。しかし、この「清めの塩」というものは、「死」という恐ろしいものに対してのものであって、決して亡くなった方を穢れたものと見なしているのではないように思います。 日本では昔から、塩には不浄や穢れを除いて清める力があると信じられてきました。神棚に塩を供えるのも、清らかなものという意味だからです。大相撲は日本の国技とされますが、力士が土俵に塩を撒くのは清める意味ですし、商売をする方がお店の入り口に盛り塩をするのも同じです。 なお、「喪中には神社にお参りしない」という習慣は、神様は死や血などの穢れを嫌うことによります。 |
【ご質問 十二】 戒律(かいりつ)とは何か? 戒律とは、僧侶が自分と他人の修行の妨げになるような行為を除く為に守るべき事として、お釈迦様が定められた決まりのことをいいます。「戒」とは、僧侶個人の守るべき習慣、生きる指針を意味します。また、僧侶の集団(サンガ)が決めた規則を「律」といいます。戒律は、僧侶が覚りを得るためには必要不可欠なもので、戒を守り、禅定を修めることで仏の智慧が生まれて、覚りに到ることができるのです。 古来より多くの仏教経典で説かれてきた「十善戒」という教えがあります。これは「十項目の善い習慣」のことで、私たちの心を清らかにする教えです。十善戒は僧侶だけでなく、在家の方も持つべき戒として伝えられてきました。いつも心が落ち着いて幸せな気持ちでいるためには、毎日を欲望のままに過ごしていてはいけません。善い習慣を身につけ、理性を持って過ごすことで、いつも幸せを感じることができるのです。その十善戒は以下の通りです。 十善戒(じゅうぜんかい) 1 不殺生(ふせっしょう)・・・すべての生命を尊重する。わざと殺生しない。 「故意に生きものを殺す」ことは、仏教で最も重い罪です。人間だけでなく動物や虫などのすべての生命には意味があります。そのひとつひとつの命を大切にしましょう。この教えを守る者は、まわりから大切にされ、長生きできるといわれます。 2 不偸盗(ふちゅうとう)・・・他人の物を尊重する。自分の物でない物を取らない。 「故意に他人の物を盗る」ことは、社会的信頼をなくすことに繋がります。欲望や感情に負けないで、自分の物と他人の物をきちんと区別することで、社会から信頼を得ることができます。この教えを守る者は、精神的、経済的に安定した生活を送ることができるといわれます。 3 不邪淫(ふじゃいん)・・・男女の関係を尊重しあう。適切でない性的関係を結ばない。 「適切でない男女間の性的関係を結ぶ」ことは、裏切りの繰り返しの中に身を置くことになります。性的欲望は三大欲求のひとつでいつも心を惑わすものですが、不倫や売買春などの行為は「他人への思いやり」という慈しみの心を摘む行為なのです。この教えを守る者は、伴侶から信頼を得て家庭内が安穏になり、子孫に恵まれた人生を送ることができるといわれます。 4 不妄語(ふもうご)・・・正しいことを話す。嘘をつかない。 「嘘をつく」ことは、つまらないプライドが引き起こすものです。他人より優位な立場にいたいという欲望が原因となり、ついた嘘のためにさらに嘘をつき、「時間と思考の無駄」という不幸の連鎖にはまります。しかも最後は、自分が嘘の責任を取らなければなりません。この教えを守る者は、他人から信用されて、欺かれることがなくなるといわれます。 5 不綺語(ふきご)・・・よく考えて話をする。無意味な話をしない。 私たちはよく「思いつき」で話をしがちです。今から話す言葉が適した言葉かどうか、少し考える癖をつけて落ち着いて話すように心掛けましょう。口は災いの元と知り、いつも冷静によく考えることができると、失敗や後悔はないのです。この教えを守る者は、他人から尊敬を受けるといわれます。 6 不悪口(ふあっく)・・・優しい言葉を話す。他人の悪口を言わない。 「他人の悪口」は、他人を許せない、認めることのできない心の表れです。悪口を言うことによって心は汚れ、さらに不満が募ります。理性を失わず、いつも優しい言葉を話して、他人を認めるように心掛けましょう。この教えを守る者は、他人から蔑まされないようになるといわれます。 7 不両舌(ふりょうぜつ)・・・思いやりのある言葉を話す。他人同士を仲違いさせることを言わない。 「自分に都合の良いようにものごとを進めたい」という欲望が、他人を落とし入れたり、他人同士を喧嘩させたりさせます。これは欲望から生まれる怒り、嫉妬、恨みが原因です。このような人は他人から嫌われて、さらにまた怒りを募らせるという悪循環にはまります。この教えを守る者は、他人から信頼を受けて大切にされるといわれます。 8 不慳貪(ふけんどん)・・・満足を知る。むやみに物を欲しがらない。 誰もが「欲望」を持って生きています。人間は欲望がないと生きていけませんが、欲望が苦しみを生む原因でもあります。物に依存、執着しすぎず、「欲望を減らし、コントロールできる」と苦しみは少なくなります。欲望が強すぎると満足を知らず、いつも不満の気持ちで過ごすことになり、目の前に幸せがあってもわからないのです。この教えを守る者は、心がいつも豊かであるため、自然に善い言動が身につくといわれます。 9 不瞋恚(ふしんに)・・・まわりに対して慈しみの心を持つ。いつも落ち着いて感情を出さず、怒らない。 瞋恚とは「怒り」のことです。欲望が強すぎて自分の思い通りにならないと、怒りの感情が生まれます。怒りがさらに怒りを生み、嫉妬、後悔、恨み、悲しみ、悩み、落ち込み、鬱などの不幸な状態を作る原因になります。怒りは、自分の心を壊してしまうものなのです。そして、怒りから生まれる不幸に勝つのは「慈しみ」の心だけです。この教えを守る者は、慈しみが顔や言動に表れて、まわりから好かれて大切にされるといわれます。 10 不邪見(ふじゃけん)・・・ものごとを素直に見る。因果、縁起、無常の道理を知り、正しく考える。 邪見とは「間違ったものの見方、考え方をする」ということです。私たちの心はいつも欲望や怒りに支配されていて、ものごとをありのままに見ることが難しい状態にあります。しかし世の中はすべて、因果(原因と結果)の繰り返しで成り立っています。欲望と怒りに負けて、ものごとを卑屈に考えて恨んだり、済んだことを後悔したり、未来を心配したり、悩んだり落ち込んだりしないで、目の前の事実を素直に受け止めることが大切です。そして、いつも理性を持って過ごしましょう。この教えを守る者は、仏の智慧を得ることができるといわれます。 仏様の説かれた十善戒は「人としての生き方、人としての行ない」でありながら、「幸せになる方法」でもあるのです。 |
